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TOPWeb なんでも鋳物館>鋳物(いもの)の歴史 第1章 6.鉄仏・茶湯釜・農具
■第1章 文明とともに歩んだ鋳物の歴史

6.鉄仏・茶湯釜・農具

鉄の鋳物は、出土品の調査などからわが国では4世紀

ごろからつくられたことが知られている。当時は、主に中国大陸から原料地金を輸入して使われた。しかし、「水碓[みずうす]を造りて鉄を治す」(670年)などの「日本書紀」や「続日本紀」の記録からも明らかなように、現在の茨城県、滋賀県、岡山県などを中心に当時からわが国でも製鉄が行われていた。

その後、中国地方と東北地方が砂鉄を原料とする「たたら製鉄」の中心的存在となり、中世から近世初期にかけて砂鉄採取法とたたら炉の構造や送風機構に改良が加えられ、江戸中期には鉄の生産量は飛躍的に増加した。

たとえば砂鉄の採取法では、原始的な露天採掘法から水の流れで重い砂鉄を沈殿捕集する「鉄穴流し」という比重選鉱法が1610年ごろから始まり、採鉱作業は格段に進歩した。また精錬炉では、送風用ふいごの発明とその後1691年(元禄4年)の天秤ふいごの考案によりたたら製鉄法が確立し、1852年(嘉永5年)洋式高炉が建設されるまで製鉄は「たたら炉」によって行われた。

こうして鉄の鋳物づくりもしだいに活発になった。関東を中心につくられた鉄仏、京都三条釜座[かまんざ]・筑前芦屋・下野天命[しもつけてんみょう]などの茶湯釜、各地でつくられた鋤[すき]や鍬[くわ]などの農具が鉄鋳物の代表例であろう。

阿弥陀如来坐像
写真1:阿弥陀如来坐像[あみだにょらいざぞう]
所在:宮城県柴田郡柴田町本船迫 大光院
芦屋音城寺釜
写真2:芦屋音城寺釜[あしやおんじょうじがま]
所在:東京国立博物館 室町時代の作、高さ15.5cm、口径10.9cm
鉄仏

鉄の鋳造仏すなわち鉄仏は現在各地に約70体あり、ほとんど13世紀の作で、過半数が関東、ついで山形県など東北地方と愛知県に集中し、畿内では京都6、奈良1の計7体だけである。

端正な青銅仏と違い、鋳肌が粗く素朴で野性味をおび、関東武士の気質と一脈通じるものがあるので好んで関東でつくられたと思われる。合わせ型で鋳造しており、多くの鋳像に鋳張りの跡がはっきり認められる。(写真1参照)

茶湯釜

鎌倉から南北朝と続いた乱戦がおさまり、将軍足利義満のころになると能や生花などとともに茶の湯が流行し、筑前芦屋(福岡県遠賀川流域)の芦屋釜、下野天命(栃木県佐野)の天命釜、京都三条釜座の京釜などで知られる鋳鉄製の釜がつくられるようになった。(写真2参照)

なかでも京都三条の釜座は信長・秀吉に保護され、釜以外にも灯籠や梵鐘まで手がけ、宮中蔵人所の必需品を供給する座としてしだいに勢力を増してきた。1543年(天文12年)8人の鋳物師しかいなかったこの座も、1625年(寛永2年)には88人になったと記録され、座の法度[はっと]をつくり、材質で鉄と銅、製品で釜・仏像・梵鐘というように分業化し、河内丹南に代わって全国鋳物業の中心的存在になった。

17世紀後半に入るとこの三条釜座の勢力もしだいにうすらぎ、文化の爛熟した元禄のころには各地の鋳物師がそれぞれ独自に茶湯釜・農具などの鉄鋳物、梵鐘・柄鏡などの青銅鋳物の製作を行うようになった。

農具

鉄地金の供給が盛んになると、材質的に優れているので、各地でなどの農具がつくられるようになった。現在も何代も続いた鋳物師を訪れるとこういった農具をつくる木型や鋳型の残片が残されているが、主に鋳型は半永久の焼型が用いられた。

【アイシン高丘30年史掲載「鋳物の歴史」石野亨執筆より抜粋】
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