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TOPWeb なんでも鋳物館>鋳物(いもの)の歴史 第2章 4.大砲・鋳鉄橋(その3)
■第2章 技術革新の軌跡
十二神社
写真1:奈良県五位堂の十二神社の鋳鉄製鳥居(1839年鋳造)
顕微鏡組織
写真2:鳥居の顕微鏡組織-1
粗大でまっすぐな黒鉛と粗いパーライト基地
顕微鏡組織
写真3:鳥居の顕微鏡組織-2板状ステダイト組織
神子畑鋳鉄橋
写真4:神子畑鋳鉄橋兵庫県朝来郡朝来町、全長15.975m、高さ3.81m

4.大砲・鋳鉄橋(その3)

科学技術の導入と鋳鉄鋳物の材質

18世紀末、イギリス繊維工場に端を発した産業革命の波はヨーロッパの他の国々、アメリカ、ついで100年後の19世紀にはわが国にも押し寄せ、科学技術を発展させ、工業制度を普及させるなど産業も社会構造も大きく近代化に向かって前進した。

高炉法が発明されるまでの製鉄は、わが国のたたら吹きも含め能率がきわめて悪いことは先に述べたとおりである。しかし低温での固体還元のため炭素以外の第3元素の溶け込みはほとんど無く、得られた銑鉄『けら』の成分分析の結果をみてもSi、Mn、P、Sなどの含有量は非常に少ない。

14世紀末から貴族や武士階級に能・生花・茶の湯などの趣味が流行し、とくに茶の湯に使う鋳鉄製の釜が盛んにつくられた。京都の辻与次郎が豊臣秀吉の茶の湯の師千利休の釜師として著名である。また、奈良五位堂の十二神社本殿前の鋳鉄製鳥居は、柱の部分に「天保十年奉納御鋳物師杉田越前大掾藤原美信」と鋳出されており1839年に鋳造されたことがわかる。(写真1参照)

先に述べたように高炉法が日本へ伝えられたのは19世紀中ごろなので、これらはたたら吹きで得られた和銑[わずく]を主原料とし、木炭吹きの甑[こしき]で溶製されたものであろう。成分を分析してみるとCは4.17〜4.57%と非常に高く、炉内で地金が木炭と高温で長時間接触した結果の吸炭によることがわかる。しかし他の元素、たとえばSiは0.03〜0.07%、Mnは0.002〜0.014%、Sは0.019〜0.027%といずれもきわめて低く、原料地金が炭素以外の第3元素のほとんど入っていないたたら吹きの銑鉄を使用していること、およびこの高炉の溶解熱源も不純物の少ない木炭を使用したことが裏付けられる。Pだけは0.191〜0.24%と現代の普通鋳鉄と比較してもかなり高いが、甑溶解で温度もあまり高くなく、しかも茶湯釜のように薄肉のものを鋳込むため、Pが湯流れを良くし、鋳肌を美麗にすることを経験的に知って、燐含有量の高い輸入地金「南蛮鉄」か「高燐のヨーロッパの高炉銑」を併用したためであろう。

顕微鏡で結晶組織を見ると、黒鉛が棒状に大きく伸び、基地の層状になってみえるパーライト組織の層間隔もあらく、結晶粒の境界には板状セメンタイトを含んだステダイトと呼ぶ燐を多く含む特異な組織が認められた。(写真2、3参照)

次に、先にしるしたイギリスのセバーン川に架かっているアイアンブリッジ(1779年鋳造)をみるとその成分はC:3.25%、Si:1.48%、Mn:1.05%、P:0.54%、S:0.037%だった。アイアンブリッジはもちろん産業革命の洗礼を受け、コークス高炉で得た銑鉄を原料に用いキュポラで溶製したと判断される。先のわが国の灯篭や鳥居などと比べると炭素含有量は低く、Si、Mn、P、Sは比較的高く現代の鋳鉄鋳物と大差が無い。顕微鏡組織を見ても現代のFC150程度のものと同じような形状の粗大片状黒鉛が認められ、基地組織もパーライト地にフェライトを含み、普通の形状のステダイトが結晶粒界に認められる。

1868年(明治元年)国有となり、政府がフランス人コワニエらの指導を得て開発に力を入れた兵庫県生野鉱山の鉱石運搬道路に1884年(明治17年)ごろ架けられた鋳鉄橋のうち、神子畑橋と羽淵橋の二つが現存している。イギリスのアイアンブリッジの建設より100年後である。(写真4参照)

当時の工部省所管の横須賀製鉄所は、3tキュポラをもち、明治初年のころの生野鉱山で用いる諸設備を製造したことが記録されており、おそらくこの鋳鉄橋も遠くこの横須賀製鉄所で鋳造し、飾磨まで舶送、その後陸路を運んで現在の場所に据え付けたと推測できる。

これも先の灯篭・鳥居・茶湯釜などと比べると、Cは2.42〜2.67%と低く、逆にSi:1.54〜1.58%、Mn:0.056〜0.102%、S:0.79〜1.01%とこれらの成分含有量は高く、さらにPは1.19〜1.26%と非常に高い。ヨーロッパから輸入した高炉銑を主原料とし、輸入コークスを燃料としキュポラによって溶製されたのであろう。

こうして灯篭・鳥居・茶湯釜・鋳鉄橋およびイギリスのアイアンブリッジなど、産業革命の始まった18世紀後半を中心にいくつかの鋳鉄鋳物を調査してみると、原料地金は第3元素の極端に低い「たたら銑」かヨーロッパから輸入された「高炉銑」か、溶解炉は甑炉か反射炉かキュポラか、燃料は木炭かコークスかなどの相違とその関連性が明らかになり、成分の違いと黒鉛やステダイトの形状などにみられる顕微鏡組織の特異性などとの関係が知られ、当時の急激な技術の変遷過程がうかがわれる。
【アイシン高丘30年史掲載「鋳物の歴史」石野亨執筆より抜粋】
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