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TOPWeb なんでも鋳物館>鋳物(いもの)の歴史 第3章 1.昭和初期の発展
■第3章 鋳物の現代史

1.昭和初期の発展

日本鋳物協会設立のころから終戦まで

江戸末期から明治初年のころ、それまでの経験と勘が主体の職人芸としてはぐくまれた鋳物づくりも急速に欧米の技術や工場制度を吸収し、近代工業としてのかたちを整えるようになった。すなわち、溶解炉は「こしき」から「キュポラ」や「るつぼ炉」あるいは「エルー式電気アーク炉」に移行し、溶解燃料も「木炭」から「微粉炭」や「コークス」、さらに電気の利用へ、鋳型も「真土型」から「生型」へ、造型作業は「手込め」から「造型機」の導入というようにしだいに発展していった。

早稲田大学鋳物研究所
写真1:早稲田大学鋳物研究所(現在の早稲田大学各務記念材料技術研究所)

こういった工業の動きにともなって、技術研鑚の場として1928年(昭和3年)ごろから関東と関西にそれぞれ「鋳物懇話会」がつくられ、1932年、鋳物に関する学問技術を研究し、その改良発展に寄与することを目的とした全国組織の日本鋳物協会(現在の日本鋳造工学会)が誕生した。

また、1938年早稲田大学付属の研究機関として鋳物研究所が開設された。(写真1参照、現在の各務記念材料技術研究所)このわが国唯一の鋳物に関する研究所の設立とその後の活動が近代鋳物技術の発展に尽くした功績はきわめて大きい。

この時代の鋳鉄鋳物製造技術の変遷を、原料銑鉄と溶解炉キュポラの構造や操業法の移り変わりおよび材質向上に対する研究の動向などに注目して探ってみよう。

まず原料銑鉄の製造状況と鋳物工場での使用状況は次のようである。明治初期の工部省による釜石製鉄所の建設、1901年(明治34年)の官営八幡製鉄所操業開始と続き、それまで長い間行われた砂鉄による「たたら吹き」から「高炉を用いた近代製鉄」に変わった。これにより、たたら銑から高炉銑へと変わっていった。

わが国にキュポラが初めて建設された19世紀末から20世紀初期のころのキュポラ用地金は、たたら吹きの和銑[わずく]から木炭銑、さらにコークス高炉による銑鉄に変換する過渡期で、これに加えて中国(満州)をはじめイギリス、ドイツ、スウェーデンなどから外国銑も輸入されるなど、数多くの銘柄の銑鉄が供給され、鋳物技術者はその破面で成分を判別し、種々の銘柄のものを配合して目的の製品をつくった。

破面による銑鉄の分類は、おおむね次のとおりである。高炭素で破面が濃い黒色の濃灰銑、結晶が微細な淡灰銑、黒鉛が少なく白色の斑点がある斑灰銑、破面が白色緻密な白銑の4種類に分類していた。

次にキュポラの構造では、「こしき」の1本羽口からキュポラでは複数本あるいは2段羽口などに発展していった。わが国でも1860年代に長崎や横須賀の製鉄所など軍関係の工場に導入され、主に兵器や機械部品をつくる近代的工場の鋳鉄溶解炉として普及していった。その後、1940年ころから標準構造と操業方法の基準が出来上がり、また、炉前管理の必要性が認められ、楔型試験片によるチル深さや破面検査と硬さから溶湯の性状を判断するなど、現在のキュポラの構造や操業法の基礎が確立された。

鋳鉄黒鉛組織
図1:石川登喜治博士による鋳鉄黒鉛組織の分類

材質に目を向けると、強度を上げた高級鋳鉄が注目された。A.F.Meehan(1922年)は鋼屑の使用とCa-Si接種によるミーハナイトメタルを開発し、K.Emmel(1924年)らから鋼屑や低炭素銑を配合してC,Siを低く抑え引張強さ30〜40kg/mm2を得る高級鋳鉄製造法が発表された。わが国でも、石川登喜治博士の提唱した菊目組織鋳鉄や松浦・堀切らによるセミスチールの考え方および先述の外国の製造技術が広く普及し、強度を上昇させる方向に進んだ。(図1参照)

また、1940年12月には石川薫博士により排熱を利用した熱交換器と、これを用いた熱風キュポラ操業結果および溶湯材質に及ぼす影響が報告され、次第に熱風キュポラが定着していった。

戦後の混乱と復興

1945年8月の敗戦とともにわが国の鉄鋼生産は停止状態になったが、1947年ころから学界も産業界も復興に向けて動き出した。鋳造業界にとってこのころの最大のニュースは、球状黒鉛鋳鉄の発明である。

1947年イギリスのH.Morrogh, W.J.Williamらにより鋳放し状態で鋳鉄中に球状黒鉛が存在することが発表され、翌年Ceやミッシュメタルにより黒鉛が球状化することが同氏らにより確認された。その1年後にはMg添加の効果がA.P.Gagnebin, K.D.Millisらにより発表され、球状黒鉛鋳鉄製造方法が工業的に取り上げられるようになった。わが国でも1949年ころより早稲田大学鋳物研究所をはじめ各地で研究が開始され、1950年3月には「球状黒鉛鋳鉄に関する講習会」が早稲田大学で開かれた。

溶解技術では、20%近くの灰分を含むなどコークスの品質低下にともない、多段羽口や羽口比が大きく有効高さの低いキュポラ、エルー式アーク炉による鋳鉄溶解が試みられた。

戦後5年、朝鮮動乱の勃発(1950年6月)にともなう米軍からの特需や海外市況の好転に支えられ、わが国の産業は完全に復興し、鋳物技術や鋳物産業も急速に発展した。
【アイシン高丘30年史掲載「鋳物の歴史」石野亨執筆より抜粋】
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