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第1章 文明とともに歩んだ鋳物の歴史 5. 貨幣・梵鐘・和鏡

前江戸時代までのわが国の青銅鋳物としては、仏像・仏具のほかに貨幣・梵鐘・和鏡が挙げられよう。これらについてすこし解説を加える。

貨幣

写真1:天保通宝と寛永通宝
天保通宝は天保6年(1835年)に100文銭として江戸浅草橋場で初めて鋳造された。寛永通宝は寛永13年(1636年)から鋳造された江戸時代の代表的な通貨である。

写真2:枝銭
860年に仙台石巻で鋳造された寛永通宝の枝銭。
写真中:1)製品 2)堰 3)湯道 4)湯口

中国では、鋳造貨幣は紀元前11~前8世紀の周の時代の蟻鼻銭[ぎびせん]や魚幣[ぎょへい]が最初で、春秋戦国時代(紀元前770~前221年)には布貨や刀貨がつくられた。その後円形孔あき銭が鋳造され、孔も円孔から方孔に変化し、唐の初代高祖により621年(武徳4年)「開元通宝」が発行された。わが国最初の貨幣「和同開珎」(708年鋳造)もこれにならってつくられたといわれている。 わが国では、その後250年間に12種の銅銭(皇朝十二銭)が国家の直轄事業として鋳造発行されたが、958年の「乾元大宝」を最後に、約600年間は中国の宋銭、明銭、永楽銭などを通貨として使用した。

豊臣秀吉は幣制の統一をはかるため銅貨「天正通宝」(1587年)、銀貨「文禄通宝」(1592年)を鋳造発行し、その後江戸時代にかけて「慶長通宝」(1606年)、「宝永通宝」(1636年)、「天保通宝」(1835年)などの銅銭が数多く鋳造された。(写真1参照)

鋳造加工は、量産しやすいことと複雑な形状のものでも自由につくりうることを特徴としているが、貨幣は鋳物づくりが工業化し、量産に主眼をおくようになった現代の生産体制が確立する以前に、量産を目指した鋳造品の代表例であるといえよう。(写真2参照)

梵鐘

写真3:妙心寺鐘
高さ150cm、口径86cmの日本最古の鐘。

わが国に梵鐘が伝えられたのは7世紀ごろで、京都の妙心寺鐘698年(文武天皇2年)福岡県粕屋郡で鋳造されたことが鐘の内側にしるされており、銘の入った鐘で最も古い。(写真3参照)のちの奈良東大寺鐘(752年)、京都方広寺鐘(1614年)、京都知恩院鐘(1636年)の3鐘は重量約25~36トンで、過去の梵鐘のうちもっとも大きい。

梵鐘は、初期のものは「ろう型法」や「削り中子法」でつくられたとも考えられるが、多くは鐘の断面をなぞった板を回転させながら、土を塗り固めて鋳型をつくり、鋳込み前に模様や銘を鋳型面に「型押し」や「へらによる彫刻」でつけ、乳[にゅう]や竜頭はあらかじめつくって焼成した雌型を鋳型のそれぞれの位置に埋め込んでつくる。材質は、西欧の教会の鐘が錫20%~25%を含み、かん高い音を出すのに対し、梵鐘はじめ東洋の鐘は錫13~15%を含む青銅鋳物製が多い。

和鏡

写真4:瑞花鳳凰八稜鏡
直径12cm、唐鏡国立博物館蔵

鋳銅鏡が中国から渡来したのは紀元初年のころと推定されるが、魏志倭人伝には239年(景初3年)と240年(正始元年)に銅鏡が渡来したことが記録されている。

中国漢代の鏡を模した鏡を鋳造することから始まったわが国の鏡づくりも、平安時代に入ると独自の鏡「和鏡」がつくられるようになった。これは鏡が宝器から宗教の用具へ、さらに化粧道具として貴族社会にとけ込むに従って、繊細優雅な純和風のものが好まれるようになったためであろう。すなわち漢唐の鏡を模した奈良時代のものがしだいに影をひそめ、瑞花や鳳凰などに変わり和風化していった。(写真4参照)さらに松や菊、鶴や雁などわが国の自然風物に変化し、草花双鳥鏡などの純和風の藤原鏡が成立した。鎌倉時代に入ると重量感のある荘重なものとなり、室町時代末期には円鏡に柄をつけた柄鏡が登場し、これが桃山・江戸時代の化粧用和鏡の主流となった。

鋳造技術をみると、わが国初期のものは渡来鏡を原型とした「跳返し法」やろう型原型に鏡背の模様を彫った「ろう型法」が用いられた。やがて鏡背に浮き上がらせようとする模様をなぞって土の鋳型表面をへらで押して雌型をつくる「へら押し」の技術が確立した。鏡面は鋳造後やすりで研磨し、最後に錫アマルガムを塗布して仕上げられた。

【アイシン高丘30年史掲載「鋳物の歴史」石野亨執筆より抜粋】

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