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第2章 技術革新の軌跡 5. 近代鋳物工場の胎動

官営工場の建設と民間の造船工場

19世紀後半、黒船の来航に衝撃を受けた徳川幕府は国防の急務を悟り、造船その他に必要な原料鉄の対策として、従来の「たたら製鉄」より効率のよい高炉の築造に着手し、長崎、横浜、横須賀に製鉄所を建設した。(長崎製鉄所については前出)しかし、十分な業績をあげないうちに明治時代を迎えた。

明治政府は欧米の先進諸国に追いつくため「富国強兵」政策を強力に推進するため、これら幕府ならびに諸藩の施設を軍関係の設備、兵器、軍艦などをつくる工廠にする計画を立てた。

まず1868年(明治元年)に創立した東京関口製造所は、大砲の修理や小銃の製作に着手した。のちの東京砲兵工廠である。大阪砲兵工廠は1870年(明治3年)大阪城内に建設され、長崎製鉄所の一部が移され主に大砲の製造を行った。

これらの陸軍の施設に対し、海軍でも1873年(明治6年)から横須賀・呉・佐世保・舞鶴に相次いで海軍工廠がつくられ、主に艦船の建造を司った。

併せて、軍および海運業界の要請を受けて民間の経営する造船関係の工場が発足した。三菱造船(株)長崎造船所の前身である長崎製鉄所、石川島播磨重工業(株)の前身である石川島造船所、川崎重工業(株)の前身である川崎造船所などである。これらのような明治政府からの払い下げに頼らず、自力でつくり、後に大きく発展したものに現在の日立造船(株)があげられる。1881年(明治14年)イギリス人貿易商エドワード・ハンターが大阪の安治川に開設した大阪鉄工所は、造機工場やドックを備えた大阪地区唯一の洋式造船所として発足した。

これらの工場は、造船以外にも陸用ボイラー、陸用蒸気原動機、鉱山機械、橋梁などの製造も手がけた。

鋳造技術をみると、横須賀工廠や石川島造船所など関東の工場はフランス系、長崎や関西方面はイギリス系というように二つの流れがある。フランス人の指導を受けた横須賀工廠に始まる関東では真土[まね]型が広まり、長崎造船所に伝わったイギリス流の方式は、粘土分の少ない釜砂を搗き固めて鋳型をつくり、乾燥型とするもので、佐世保・呉・舞鶴の海軍工廠から関西の民間工場に広まり、やがて関東にも伝わって真土型を駆逐してしまった。天然の鋳物砂だけを用いる生砂造型法も薄肉の小物製品に適用され、とくに鋳物砂の産地に近い中小鋳物工場で普及した。

近代化した民間鋳物工場の誕生と発展

先に述べたように江戸末期、諸外国からの開国要求に刺激され、長崎や横須賀などに造船・兵器関係の工場がつくられ、多くはそのまま明治政府に引き継がれ、陸海軍の工廠として拡充されるとともに、一部は民間に払い下げられ舶用エンジンや推進器をはじめ機械部品をつくる鋳物場も、その中でしだいに設備を充実していった。さらに明治の中期から大正初期にかけて現在も活躍している数多くの工場が誕生した。

たとえば普通鋳鉄では、1890年(明治23年)大阪で始まった「大出鋳物」は現在の鋳鉄管のクボタ(株)であり、1898年(明治31年)発足の「大隈鉄工所」は工作機械鋳物のオークマ(株)である。また、鋳鋼関係では、1900年ころより現在の住友金属工業(株)、(株)神戸製鋼所、(株)日本製鋼所の前身がそれぞれ設立された。1917年(大正6年)には自ら設計した1.5トンエルー式アーク炉でわが国で初めて普通鋳鋼の電気炉による溶解を「電気製鋼所」、現在の大同特殊鋼(株)が始めた。さらに、1910年(明治43年)に「戸畑鋳物」で鉄管継手を主体とする可鍛鋳鉄の製造が始まった。現在の日立金属(株)の前身である。

ほかに、造型機などの機械化設備を開発・製作して、それまでの手作業の鋳物づくりの機械化・合理化に向けた動きも始まった。

【アイシン高丘30年史掲載「鋳物の歴史」石野亨執筆より抜粋】

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