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第2章 技術革新の軌跡 3. 大砲・鋳鉄橋(その2)

江戸末期の鋳物工場

大島高任は1856年(安政3年)水戸藩の反射炉を建造し、鋳鉄砲の鋳造に着手した。この際の原料鉄は、出雲産のたたら吹きの銑鉄であったが、たたら製鉄は天秤鞴が考案され高殿での屋内精錬に移った18世紀以降でも、銑鉄1tを得るのに砂鉄約3.5t、木炭3.2t程度を要し、直接作業者約10人で3日間昼夜兼行の作業を必要とするなど効率は悪く、とうてい大砲の砲身を鋳造する原料地金の供給源として無理なことを知った。そこで、自分の生地南部釜石に1857年(安政4年)高炉を建設し、鉄鉱石の精錬に成功した。

これより先、1852年(嘉永5年)薩摩藩により鹿児島集成館にわが国最初の洋式高炉が建設され、1854年(安政元年)7月試験操業が開始された。燃料は木炭、水車送風で3昼夜の操業で銑鉄約2.1tを得たと報告されている。

釜石の高炉は最初1日750~930kgの銑鉄を生産し安定した連続操業に入り、引き続き10基の高炉が建設された。1日1基1.5~2t程度の出銑量、操業期間は1~2週間、長くて1ヶ月くらいだったという。

その後、明治時代初期(1860年代)に工部省によって釜石製鉄所が建設され、さらに釜石鉱山田中製鉄所へと発展し、陸海軍工廠での鋼の製造技術と相まって、1901年(明治34年)官営八幡製鉄所で1日160tの高炉操業が始まり、銑鋼一貫作業が開始され、ようやくわが国鉄鋼業も近代化に踏み出した。すなわち、それまで長い間中国山地の周辺地帯を中心に行われてきた砂鉄を原料とする「たたら製鉄」から長時間連続操業しうる効率のよい高炉を用いた「近代製鉄」に変換した歴史的な時代である。

写真1:飽ノ浦長崎鎔鉄所
(1859年ころ)

この時代を転機に鋳物技術も近代科学技術を吸収し、大きく発展した。

徳川幕府は海防の急務を悟り、それまで出されていた「大船建造禁止令」を1853年(嘉永6年)解除し、全国に造船事業の興る機運を導いた。自らも浦賀に造船所を設立するとともに、水戸藩に委託して石川島造船所を開設させた。さらに1855年(安政2年)長崎に海軍伝修所と艦船造修工場を設立する計画を立て、長く交易を続けてきたオランダに工場の設計や設備の調達を依頼した。要請に応じ1857年(安政4年)9月オランダ海軍将校ハルデスら一行37名が、幕府発注の軍艦ヤッパン号(のちの咸臨丸[かんりんまる])で工場に必要な蒸気機関、鉄鎚その他の機械類とともに来日し、直ちに浦上村淵字飽ノ浦で工場の建設に着手した。艦船造修所は長崎鎔鉄所と名づけられた。(写真1参照)

この溶鉄場すなわち鋳物工場は100m×70m程の広さで12基の溶鉄炉(キュポラ)を備え、製造能力は約50馬力の舶用機関を製作しうる程度と記録されている。

写真2(左):ヨーロッパの昔のキュポラ
キュポラ(Cupola)という語は桶や樽を意味するラテン語のCupaから転じたもので、初期のヨーロッパのキュポラは樽形をしていた。(AFS [The Cupola and its Operations,1954年]より)

写真3(右):わが国初期のキュポラ
京都大学教授故斉藤大吉博士が著書の「金属合金及其加工法、1909年刊」に紹介されているキュポラの図で、「このキュポラは1865年ころIreland氏の創始されたもの」と記されている。

鋳鉄の溶解炉キュポラは、ヨーロッパで1750年ごろ、アメリカで1820年ごろから稼働しており、わが国ではこの長崎製鉄所の鋳物工場に設置されたものがおそらく最初であろう。(写真2、3参照)

その後、幕府は1865年(慶応元年)横浜に製鉄所を完成し、同年横須賀製鉄所の建設にも着手している。この横須賀製鉄所はフランスに依頼して建設を進めたが、工事の途中で幕府は崩壊し、明治政府が踏襲して海軍所管の横須賀校廠として1873年(明治6年)竣工した。鋳物関係は鋳物工54名、木型工21名の構成だった。石川島造船所は1876年(明治9年)民間人平野富二の経営する石川島平野造船所となり、1883年(明治16年)同所鋳物工場には3tキュポラ1基、5tラジアルクレーン1基、強圧送風機1基が設置され、フランス人の技術指導を受けていたという。

【アイシン高丘30年史掲載「鋳物の歴史」石野亨執筆より抜粋】

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