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第1章 文明とともに歩んだ鋳物の歴史 3. 仏教伝来と鋳造技術

石器や土器しか用いなかったころは、人々は必要に応じて自分の器物をつくったり、他の人と交換したりする簡単な社会機構だったが、弥生時代に入り大陸から農耕の技術や鉄の農器具が渡来すると、稲作文化が発達し、社会体制の中に階級制度が生まれ、分業化し、専門技術を持った生産者集団が独立する機運が出てきた。

写真1:飛鳥大仏「鋳造技術の源流と歴史」より

古墳時代に入ると、幾つかの階層を形成し、技術者はその仕事によって貴族に隷属[れいぞく]するようになった。玉作部・鏡作部・鍛部[かぬちべ]・楯部[たてぬいべ]・弓削部・矢作部[やはぎべ]・土部[はじべ]・鞍作部などの名称はこういった技術者集団の仕事の内容を示している。このうち、鋳物づくりに最も関係のあるのは鏡作部と鞍作部である。

鏡作部は4世紀ごろから奈良県田原本町付近に居住し、主に鏡の鋳造をつかさどった。

鞍作部仏像や法具をつくるろう型の技術を持った集団で、特に522年渡来し大和の高市郡坂田原に住んでいたという司馬達止の孫鞍作鳥(止利仏師)は飛鳥大仏(写真1参照)や法隆寺釈迦三尊像の作者として知られ、彼を頂点とする止利派の人々の鋳造技術や造形美感覚は現在もきわめて高く評価されている。

写真2:ろう型の製作
「図解 日本の文化を探る[3] 奈良の大仏をつくる」より仏像の鋳型づくりで中子の表面にろうで仏体をつくり、細部をへらで修正しているところ

この止利派の人々のつくった多くの仏像にみられる「ろう型法」は、松脂[まつやに]と蜜ろう[みつろう]を練ってつくった「ろう」を温めて軟らかくし、これで形をつくり、その周囲に土を塗り固め、乾燥後焼いて中の「ろう」を流し出し、その後にできた空間に溶けた金属を流し込む方法である。現在でもこの方法を踏襲して作品をつくっている鋳金工芸家がおられる。なお、ジェットエンジン部品など現代の複雑精密な鋳物製品をつくる技術は、この方法を改良した「ロストワックス法」である。(写真2参照)

また、百済から伝わったという「削り中子法」は、土でつくった原型に合わせて外型をつくり、乾燥後これをはがし、先の原型を鋳物の肉厚だけ削って中子とし、外型を元の位置にもどして、削った隙間に溶けた金属を流し込んでつくる方法で、塔頭の露盤や大仏の鋳造など大きな中空の鋳物をつくるのに用いられた。

このように、わが国の鋳物技術は紀元初年のころ中国大陸から伝えられたが、6世紀に入り仏教が伝来し国家的宗教となり、寺院の建築や仏像・仏具の製作が活発になるにしたがって、生産量も技術水準も向上した。そして「ろう型法」や「削り中子法」などの高度の技術が駆使され、つくられた鋳像などの作品類は製作技術の点でも美的感覚からも、現代の視点でも瞠目させられる。

【アイシン高丘30年史掲載「鋳物の歴史」石野亨執筆より抜粋】

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