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第1章 文明とともに歩んだ鋳物の歴史 4. 大化改新と奈良大仏

前節で述べたように、6世紀の仏教公伝のころから仏像や仏具の鋳造が盛んになった。さらに、中大兄皇子らによって大化改新が断行され、646年(大化2年)改新の詔が発布され、古代律令国家が誕生したのを契機に、多くの工業技術上の発明、造船や橋梁・城郭の建設などの土木事業が盛んになり、鉱山の開発・鉱石の精錬も活発に行われるようになった。

写真1:奈良の大仏

大化改新からちょうど100年後に建立された奈良大仏は、このように全国にわたって採掘精錬された銅をはじめとする原料地金や金・水銀など塗金必要な材料の確保と、発展を続けた工業全般に支えられた鋳造技術との結晶といえよう。

奈良大仏の建立は、聖武天皇が740年(天平12年)河内国知識寺の盧舎那仏像を拝され、ご自身もこのような仏像をつくろうと発願され、743年(天平15年)「大仏建立の詔」を発布されたのに始まる。

直ちに紫香楽の地(滋賀県)で寺地の開墾と大仏像の骨柱づくりが行われた。その後、建立場所を大和国山金里(現在地)に移し、大仏の鋳造に2年余、補鋳と仕上げに5年、塗金に5年、光背づくりに8年、大仏殿の建築に4年など、長い年月をかけて全部が完成したのは771年(宝亀2年)で、建立の詔の発布から約30年を経過していた。

「東大寺要録」には、大仏および大仏殿の建設に携わったのは、知識(寄進者)42万余人、役夫(作業者)延べ役218万人と記している。その間に聖武天皇は崩御され、勧進に努力された僧行基も入寂された。

建設をつかさどる組織としては、東大寺の前身金光明寺に設けられていた造物所が748年(天平20年)に正式に「造東大寺司」となり、造仏所・鋳所・木工所・造瓦所などの営繕期間と、甲賀山作所などの材料調達機関、造香山薬師所・造石山院所といったいくつかの現場作業所をもつ巨大な機構に発展した。

大仏鋳造の総責任者である国中公麻呂は、663年(天智天皇2年)百済から渡来した国滑富の孫で、大仏建立前の計画の初めから参画していた。そして、774年(宝亀5年)10月3日、すなわち大仏が光背まで全て完成した3年後に亡くなった。

図1:奈良の大仏はどのようにしてつくられたか
土でつくった塑像の外側に土の鋳型(外型)をつくり、次に塑像を銅でつくる像の厚みだけ削って、先の外型との隙間に溶けた銅を流し込みます。大きな像なので、8回に分けて下から順に鋳込んできました。
図1の左側は5段目の鋳込みのところです。土手の上にたくさんの溶解炉「こしき」を並べ、踏ふいご「たたら」を踏んで銅を溶かし、一斉に鋳型へ流し込みます。
右側は6段目の鋳型を完成し、土手を築いているところです。奥の方は、土手の上で炉に火を入れています。

【アイシン高丘30年史掲載「鋳物の歴史」石野亨執筆より抜粋】

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